Hondaの燃料電池自動車FCXクラリティ、はじめて見ました。水素で発電してモーターで駆動するゼロエミッションの車で、現在は、官庁や一部一般企業にリース販売のみとのこと。
先日、NHKのプロフェッショナルという番組、燃料電池車開発の藤本幸人氏の回で、「夢を語れ、不可能を超えろ」というメッセージを発信していた「夢」が、ついに現実に走り始めているのでしょう。
Hondaの燃料電池自動車FCXクラリティ、はじめて見ました。水素で発電してモーターで駆動するゼロエミッションの車で、現在は、官庁や一部一般企業にリース販売のみとのこと。
先日、NHKのプロフェッショナルという番組、燃料電池車開発の藤本幸人氏の回で、「夢を語れ、不可能を超えろ」というメッセージを発信していた「夢」が、ついに現実に走り始めているのでしょう。
「カンブリア宮殿」のゲストに、ディスカウントストア「オーケー」の飯田勧社長が出演していました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20090803.html
飯田社長の父からの教えとして、孟子の「至誠天に通ず」「常に正直であること」などが語られていました。
我が家の近所にはオーケーがないのですが、どんなお店か実際に見てみたくなり、葛西にある店舗にいってみたところ確かに「正直」に商品の説明が書いてありました。
りんごの値札のあたりに「あまり美味しくない」といったようなことが書かれていました。
番組のなかで「ひと昔前は、たとえば八百屋さんにいくと“これはあまり美味しくないから少し待ったほうがいい”とかそういった情報を教えてもらえていた。それは、地域のお客さまから継続して来てもらうためには、信頼が必要だから」といったようなことが話されていました。
先日、今の車で初めて、フロントをゴツンとぶつけられてしまい、ディーラーに2週間程度の修理入院となりました。 そして、その修理期間の代車としてお貸し頂いたのが、日本が誇るスポーツカー、Nissan GT-R。
3.8リッターツインターボ、VR38DETTエンジン最高出力480馬力、最大トルク60kg。フルタイム4WDで、フロント255/40/R20, リア285/35/R20の足回り。
はっきり言って、自分の車より、数値的には素晴らしくハイスペックなお車ということで、高速はもちろん、一般道でも、空いていると、ついつい右足に力が入る車です。
渋滞すると、自分の車での運転以上に、ストレスですね・・・。
東京タワーが開業50周年ということで、ライトアップが通常と違う感じ。 全面的に地デジになって、新しいTVアンテナ塔が出来たら、東京タワー、どうなってしまうのか? なくなるのは、やっぱりさびしい感じがします。
iPhoneのアプリにIM+ for Skypeを入れて、
iPhoneからSkype Out。
これにより、SkypeOutの格安な通話料金で、
海外への電話もiPhoneを通して出来ました。
もちろん国内の通話もOK.
SkypeOUtは無料ではないけれど
国際電話を携帯ですることと比較すると
相当安いと思います。
すごい世の中になったものです。
昨日のNHKスペシャル、「デジタル・ネイティブ~時代を変える若者たち~」のWEBサイトに、
デジタルネイティブ度のチェックが出来るコンテンツがありました。
http://www.nhk.or.jp/digitalnative/
インターネット(SNSなどのコミュニケーションサイト)利用については、
犯罪などの「よろしくない」部分がクローズアップされがちで、
個人的にも、ネットで知り合った人とリアルで会うということなど、
「まず、ないだろうなぁ」という世代の一人ですが、
ものごころついた時からインターネットに触れている
世代にとっては、ネットで知り合った人に「会わない」という
選択をするほうが、むしろ、「コミュニケーション力に問題がある」
という発想なのかもしれないのかな、とも。
インターネットでのコミュニケーションと、
リアルな社会でのコミュニケーションは、
トレードオフの関係ということはないと思うし、
どちらも出来れば、コミュニケーションの範囲・数といった
ものは、片方だけと比べて、きっと飛躍的に向上すると思うので、
あと90世代の人たちが社会に出始める数年後は、
もっと、もっと、ネットでのあらゆる「出会い」を
普通に活用しているのだろうなと想像します。
ネットインフラとSNSを活用することで、
番組内に登場したAnshulさんにも、facebookを使って
簡単にメッセージを送れるし、Second Lifeを使えば
国外にいる人と「一緒に」、画面を通して、たとえばスポーツ観戦とか
映画を見たりすることが出来てしまう。
自分の作った動画コンテンツを、YouTubeにのせれば、
世界中の人が観ることも出来る。
インターネットというインフラと、
使い勝手の良いサービスが整ってきている中、
世界中に発信していくために必要なものは・・・。
優れた「アイデア」と、
それを伝えるための「言葉(英語という意味含む)」でしょうか。
Googleの社訓でもある、
ビジネスにおいて、Don't be evil を実践できる、Mindでしょうか。
PART – 1 BIRTH
世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。
最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。
私はリード大学を半年で退学しました。ところが、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。では、なぜ辞めたんだ?ということになるのですが、それは私が生まれる前の話に遡ります。
私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。”育ての親は大卒でなくては” 彼女はそう固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていました。 ところがいざ私が”ポンっ”と生まれてきてしまうと、最後のギリギリの土壇場になって、”やっぱり女の子が欲しい”ということに。
そこで、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、いかがでしょうか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし、父親に至っては高校も出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげたといういきさつがありました。
PART – 2 COLLEGE DROP-OUT
こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけですが、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったので、労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくことに。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていました。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けを、どう大学がしてくれるのかも全く分からない。それなのに、自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。
そして、退学を決めました。全てのことはうまく行くと信じて。
実際、当時はかなり怖かったです。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。なぜなら、退学した瞬間から、興味のない必修科目はもう採る必要がないからそういうのは止めてしまって、その分、もっと面白そうなクラスを聴講しにいけるわけです。
ただ、それは夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セントがもらえるのですが、あれを貯めて食費にあてたりしていました。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院で、やっとまともな食事にありつけました。これが本当においしかった。
ただ、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたわけです。
ひとつ具体的な話をしてみましょう。
PART – 3 CONNECTING DOTS
リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を行っている大学でした。キャンパスのいたるところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで、美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学し、もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めました。
セリフをやってサンセリフの書体も学んで、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまいました。
こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。けれども、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきました。そして、僕たちはその全てをマックの設計に組み込みました。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
もし私が大学であのコースに寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズは「マックのコピー品」に過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。
もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできません。しかし10年後に振り返ってみると、これほどまたハッキリ見えることもないわけです。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなのです。だからこそ、バラバラの点であっても、将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならないのです。 自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができます。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じです。信じることで、全てのことは、間違いなく変わります。
PART – 4 FIRED FROM APPLE
2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたからです。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に、私は会社をクビになったんです。
どうしたら自分が始めた会社をクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので、私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会が彼に味方したので、30才にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を追放されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていました。
自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうボロボロでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な”おちこぼれ”となったことで、一時はシリコンバレーを離れることも考えたほどです。
ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。フラれても、まだ好きだったわけです。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。
その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたのです。
それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。
思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。それはそれはひどい味の薬でした。でも時には患者にはそれが必要なのだと思います。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げてはいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。
皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけれど、自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかないわけです。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることです。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっていては駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものですし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけないのです。
PART – 5 ABOUT DEATH
3つ目は、死に関するお話です。
私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が何日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
君たちはもう丸裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
PART – 6 DIAGNOSED WITH CANCER
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかったわけですが。
医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコードです。
それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。
私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。
これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけど。
以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなのですが、誰も死にたい人なんていないのです。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なのです。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんです。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジ・エージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことです。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で申し訳ないですが、でもそれが紛れもない真実なんです。
君たちの時間は限られています。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかありません。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだから。その他大勢の意見の雑音に、自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っていると思います。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。
PART – 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH
私が若い頃、” The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”というすごい出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
スチュアートと彼のチームはこの” The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。みなさんが冒険の好きなタイプなら、ヒッチハイクの途上で一度は出会うような、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」
それからというもの、常に自分自身、そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。
Stay hungry, stay foolish.
ご清聴ありがとうございました。
原文:'You've got to find what you love,' Jobs says
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html
Recent Comments